昭和50年8月27日 朝の御理解
中村良一
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
教祖様が、亡くなられて、その先のこと、魂の世界に入られての事。いよいよ、自由自在な、自由無碍の働きがお出来になる事を、私共に約束しておって下さいます。金光様が亡くなられたら、後はどうなるだろうかと、皆が心配をしておる。皆、形がのうなったら、今までに増して、自由自在に、金光大神を唱えるものの上に、働きを現してやろうぞということも、だから私共も、金光様をお唱えすると言うことの内容なんですけれども。どういう時に、金光様をお唱えする事であるか。例えば、まさかの折にとか、または、自分の都合で、自分を中心にした願い事、その時に。または、絶えず自分の心の中に、生神金光大神を頂き続ける。形がのうなっても、来てくれと言う所に行ってやると、と、いうことは、そういう、色々な場合があると思うんです。
昨夜、ある、もと、敬親会に通って見えておったお婆さんが、最近、身体が悪くて、お参りが出来なくなって、色んな都合で、またお参りが出来なくなっておられる方から手紙が来ておる。信徒会長宛に、秋永先生当てに来とるけれども、これは、何か、こちらからの色んな連絡事項の時に出すのが、全部、信徒会長名義でありますから、それで、してみるとこら、教会に来ておるなら、私に来ておるだろうと思うて、封を切ってみましたら、間違いなしに、やはり、私に対するお願いであった。もうそれは、あのお婆さんが、こんなに字を書ききりなさったじゃろうかというくらいに、こう綺麗に書いてある、何枚も。ところがその、字を呼んでみると、みんな白字であったり、例えば、毎日暑いということにも、この、暑い寒いの暑いをかいてあるし、厚く厚くお礼を申し上げますという時にも、やはり、この暑い寒いが書いてあるです。天地金乃神金光神様、天福様、親先生様と、天福様というのは大黒様のことじゃろうと思うですね、きっと。まぁ、この内容とても、読んでも、皆さんに分かりませんけれども、私が、ようやく、長い時間かかってから判読したわけですけれども。私共が、例えば、その、金光、例えば、天福様とお唱えしてもです、やはり、金光大神様が現れておられるという事です。ね。ほんなら、親先生というても、やはり、金光大神がそこに現れておられるという事です。そらもう大変、色々不思議な、お参りはせんけれども、おかげは受けておる事が、色々書いてございます。ね。ですから、必ずしも、ほんなら、金光大神様と言わなくっても、金光大神の働きは、そこに受けられるという事です。いわゆる、金光大神様が判読して下さるのです。推慮して下さるのです。私共の願いというものが、ね。もう、お礼を申し上げても、お願いを申し上げましても、お詫びをさせていただいても、もう本当に不行き届きなお礼であり、お詫びであり、または、願いであっても、金光大神様が、これは、心の底に、何を言おうとしておるか、何を求めておるかという事を、例えば、判読してくださって、いうならば、推慮、推察してくださって、おかげを下さると言う事です。
昨日の晩でしたか、直方から、行本さんという方が、まぁ、熱心に、毎日日参されます。何時も、夜の御祈念の時に参ってこられる。それに、先日、こちらで、共励会があります。まぁ、久留米やら、この頃から矢部にも、一緒に着いて行っておられます。先日から、二十二日の田主丸の地区の共励会にもおかげを頂いている。田主丸の共励会におかげを頂いて、体験を、まぁ、発表させていただいた。直方の行本さんといや、もう、古い歴史を持った、文房具の卸をなさっておられる方です。勿論、小売も、この頃から棚卸が出来ました。ところが、毎月、月末ともなると、支払、手形、もう、あれやらこれやらで、もう何時もその、やっとかっと、ギリギリでおかげを頂いておったのですけれども、私が、こうして、直方から日参をさせて頂くようになりましたら、ね。それが、間違いなしに、その前に、前日までぐらいに、必ずおかげを頂くというお話を致しました。そしたら、文雄先生から、こういうようなお話を頂いたと言われるのです。行本さん、いうなら、今合楽で言われておる、ね。貧相病、ね。貧乏のない、病気のない、争いのない世界。そういうおかげを、みんなが頂いておる事になっておる。一応は、もうそこが頂いておる、ね。出来ても出来んでも、それで卒業させて下さろうとしておる。ね。そして、今は、いよいよ、真善美の世界に住まわせていただこうというのが、合楽信奉者の、いうなら、信心の段階である。ね。例えば、その日暮しでも、例え、間違いなしにお繰り合わせを頂くという世界に住んでおれば、それはもう、貧乏じゃない、貧じゃないのだ。ね。けれども、やはり、その日その日が立ち行くという、明日は神様にお任せしてという生き方の中から、神様を信じて疑わない力というものが頂けてまいりましたのですから、もう、その信ずる力ということは、そのまま、神様が、私共を信じて下さるという働きになりつつあるのです。神様を信ずるというだけじゃなくて、神様から信じられる。二十年なら、二十年という間、まぁ、いうなら、その日暮しであっても、本当に神様の働きの間違いなさ。一分一厘間違いのない働きというものを、その日その日に感じていけれる。ね。神様のおかげを頂かなければと言うことが、十分に、段々分かってきた。ね。そこでです、ほんなら、いついつまでも、ほんなら、その日暮しではいけない。そこに、少しは、優雅な生活も出来る、ゆとりのある生活が出来るお繰り合わせを頂かなければならんという意味の事を、文雄先生から聞いた。手形がギリギリ、何時もお繰り合わせを頂いておる。今は、もうおかげで、一日前ぐらいには、おかげ頂くと。それが、お参りをさせて頂けば、頂いただけ、やはり、お参りをすれば、するがたの値打ちはあるという発表に対して、ね。行本さん、これからはね、例えば、いうなら、もう二日前には、十分間に合うようにおかげを頂いておる。その次には、三日前には、もう、お繰り合わせがいただけるようになったというように、それが、段々、こう狭められていかなければ、真善美の世界ということの世界に進んでいっておるとは言えない。ね。もう、何時も何時も、それこそ、走り込みでおかげを頂く。何時もギリギリでおかげを頂くということが、続いておるということは素晴らしい。それによって、神様を信ずる力が出来てきたのだから。ね。けれども、信ずる力から、今度は、信じられる私という事になっていかなければいけませんよという意味の御理解を頂いたということです。確かにそうです。ね。
私は、信心の稽古をするというてもです。やはり、そういう一つの目当て、目指しというものがなからなければいけない。ね。日まさり、月まさり、代まさりと言われるのですから、ね。細かに言うたら、日にちに、月々でありましょうけれども、まぁ、せめて、一年一年ぐらい、去年と今年とのおかげの頂き方。何時も、何十年経っても、ね。いうならば、金銭のお繰り合わせでもそうして、ガツガツに神様に、しっかりご無理を言わなければ、もうギリギリ、時間ギリギリ、手形なんかでも、もう時間ギリギリにおかげを頂いておる。大変おかげ頂いておる。神様の間違いなさを、それで分かる。これなんかは、やはり、神様が、本当は下されなくっても、神様が、判読してくださって、おかげを下さってあるように思うです。もう、ギリギリのおかげというのは、そうです。ね。でなかったら、もちっとゆとりのあるおかげを下さるはずです。ね。神様に信じられる。信じる世界から、信じられる世界に入っていって、その信じられる度合いが、いわば、御神徳ということにもなるでしょうけれども、信じられる度合いというものが、段々深くなっていくに従って、日まさり、月まさり、いわゆる、年まさり、代まさりのおかげになってくる。そこで、なら、信じることの、いわば、一応は、合楽の皆さんの場合は、もう出来たとして、出来ておらなくても、もう出来たとして、その世界を、いうなら、貧争病の世界を卒業して、真善美の世界に入られたというのが、今日の合楽の、まぁ、信心の段階だという風に思うんです。ね。そこは、私は、信じられる世界。信ずる世界から信じられる世界。ほんなら、信じられるためには、どういう生き方にならせて頂いたらよいかという事です。ね。あの氏子は間違いはない。それが信じられるのです。例え、人がとやこう言うとっても、いや、あの氏子に間違いがあろうはずがない、と、これは、信じられるから、そうなっておる。人と人の場合でも同じです。生神金光大神を唱えるところに、金光大神は働きて下さる。信心が、分かっても、分からんでも、それを、いわゆる、金光大神を唱えるところにおかげを頂く。それは、金光大神よりも、もっと身近な、いうならば、ね。天福様のほうが、金光大神様よりか、効果があるかも分からない。ね。ここでは、金光大神様よりも、親先生といったほうが、おかげが早い。
この頃から、日田の、井出さんところの、今、東京の大学に行っておられます息子さんの場合でもそうです、ね。(面接に帰って?)、帰りに四国のほうへ廻る。今、友達のところへ尋ねて、まぁ、あちらの見物方々でしょう。それで、沖釣りに連れて行ってもらったり、または、翌日は、自動車で、ドライブに誘われたりしておられる中に、始めてお参りをして、合楽の、まぁ、先生に、もう、親達が、兄弟達が、熱心に信心をなさるのだけれども、どうも、金光様と言う気がしなかったけれども、今度、卒業論文を書かなければならない。それで、そこに、やはり、すがる気持ちが、少し出来てきた。お母さんが、一生懸命お願いをしよるから、あんたもすがってくれという事であったので、始めて合楽にお参りをして、二度目のお参りの時に、私が、四国行きのお届けがありましたから、ね。帰りに四国に参るならば、まぁ、信心実習のつもりで、同行させて貰ったらよか、ね。いうならば、生神金光大神様を、そこに唱えさせて貰う、いわば、旅行でなからなければいけないと言うような意味の事を話しておりました。ところが、その沖釣りにやらせていただいて、少し舟が出たところから揺れだした。もう、どうにも出来ないように気持ちが悪くなったので、御神米を頂いたけれども、やはり、おかげにならなかった。はらもう、金光様、生神金光様と唱えたけれども、おかげにならなかった。ね。そして、自分の心の中に、浮かんだというか、感じたというか、ね。合楽の親先生と言うて、船べりにしがみ付いてから、もうそら、途端でしたと言う。おかげを頂いて、もうスッキリして、沖釣りを一日楽しませていただいた。こんなあらたかな事があるだろうか、とにかく、東京から電話がかかってまいりまして、もうとにかく、お礼を申し上げなければおれなかったからというて電話がかかってきた。先生、その事だけじゃございません。その翌日は、ドライブに連れて行ってもらって、私が運転を代わったばかりに、居眠り運転をして、あの、崖のふちのガードレールですかね、あれがある、もうそれにぶっつかる寸前でした。そこで車が止まったが、ちょうど、八の字に、対向車がやてきたのも、やっぱりそこで、こう八の字になった。そして、その、車と車が接触する、すれすれのところで、向こうの車も止まって、もうこれが、衝突しておったら、そのあれで、向こうの崖下に、二台ながら落ちとったでしょうけれども、もう、それこそ、ヒヤッとするようなおかげを頂いたという、電話でお届けがありました。ね。いうならばです、前の日に、いうならば、金光大神も唱えずに、言うなら、金光大神唱えたけれども、おかげにならなかったけれども、親先生を唱えたら、おかげになったという事は、金光大神さまよりも、親先生のほうが偉いというような事ではないのです。問題は、いかに、その親先生が、金光大神に通じてござるかという事です。その金光大神が、また、天地金の神様に通じてござるかという事なんです。そこで、いわゆる、信ずる力が生まれた。はぁ、あらたかなもんだという事が分かってきた。もう、その翌日には、眠っとるから、金光大神の、この字も言わんなりに、おかげを受けておると言う事実なんです。神様が判読してくださっておる。ね。神様が、推慮してくださってある。それは、神様を信ずる働き、信ずる力というものが、前の日から出来ておったということになるです。ね。それを、私は、貧争病のない世界というふうに聞いて頂いておる。どんなに、例えば、家のなかで争いがあったとしても、ね。よくよく考えて見て、日頃、頂いておる教えというものを、紐解いてみる。ね。それを思うて見ると、ね。自分自身の間違っておる点が、はっきり分かってくる。日頃頂いておる教えは、どこへやらになっておる。ね。自分の根性の悪さ、自分の見苦しさ、汚さ、ね。そこには、もう解決のおかげが生まれておる。ましてや、その事が、いうなら、お取次ぎを頂いて、おかげを頂くところに、答は一つしか出てこない。本当な事が。ね。そこに、争いが起ころうとしてもです。起ころう事のないおかげをいただくという事をです、ね。争いのない世界と言う事です。争いの寸前に分からせてもらうという事です。ね。それでも、無いようになれば、もっと素晴らしい事ですけれども、やはり、人間は感情の動物。ちょっとしたような事で、顔色が変わるようなことになったり、自分の汚さが、ね。惜しい、欲しいになったり、ね。または、それが、憎い可愛いになったりしていきますけれども、その次には、日頃頂いておる信心が、生き生きとものを言うてくる。ね。もう、せめて、そこまでは、行っておかなければならない。
合楽の信者の中には、なら、家庭争議というものが起こらない。起ころうとすると、いうなら、親先生にお伺いをしてから、親先生にお願いをしてからという事で話しが決るというおかげを頂いておるならば、それは先ず、争(そう)のない、いうなら、争いのないおかげを頂いておるということになるのです。例え、その日暮しであっても、それこそ、時間ぎりぎりであっても、お都合、お繰り合わせの頂けれる、金銭の上にでも、ね。おかげを頂いておるならば、もう、そこには、貧乏はない世界であります。ね。おかげを頂いて、ね。毎年、信心のなか時には、医者代が随分かかりよった。薬ももう、それこそ、薬箱を作らんならんくらいに、様々な薬を用意しておったものがです。薬箱がなくなり、医者代が、全然、払わんで済むようになっておるという事は、もう、例え、病気をしても、病気がない世界と同じことだ。ね。それを、まぁ、曲がりなりにも卒業させていただいて、貧争病のない世界から、いうなら、神様を信じておるから薬の要らない世界。神様を信じておるから、ギリギリにでもおかげを下さる。ね。神様を信じておるから、そんなら、明日、親先生にお伺いをしてから、答えを出していただこうで解決しておるじゃないか。親先生を信じておるから、金光大神を信じておるから、そういうことになる。ね。
だから、金光大神は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやるということは、ね。金光大神様をです。いわゆる、信ずる働き、そこからは、例えば、もう眠っておって運転して、もう今まさに、大事故でも起ころうとする寸前に、ね。金光大神様を唱えなくても、おかげの頂けれるような、もう、前の日に信ずる働き、力というものをです。神様が有難いもんだということを分かっておるという事がです。もうすでに、金光大神の働きが、そこに現れてござるということです。ね。ここまでを、いうなら、合楽の過去の信心として、ほんなら、これからはです、ね。お互い、必要に応じて、ね。真善美の世界に住もうとしておる段階にあるのですから、ね。いうならば、神様から信じられる世界に入ろうとしてるのであるから、ためには、私共が、先ず、真にならなければならない。真である。真善美の真。いうならば、嘘のない世界に住まわにゃならん。嘘のない日々でなからなければならんということに、焦点が合わされてくるわけです。善というのは、ね。その反対は悪であります。ね。いうならば、悪のない世界、悪のない心、悪のない家庭が、先ずなからなきゃいけんのです。ね。恨み、つらみとか、憎しみとかというのは、その善の反対の心ですから、自分の心から、自分の家庭からです。そういう悪のものを、追放していかなきゃいけません。改めて行かなきゃいけません。それに、何ぞや、憎いがあったり、可愛いがあったりするようなことでは、真善美の世界に住むということは出来ません。ね。いうならば、美の世界。麗しい世界。ね。心の中に咲く花。その花が、信心によって、見事に生けあげられるという世界。ね。花だけではいけん。それが生け上げられなければ。ね。本当に、例えば、私が、皆さんに聞いて頂いておるように、本当にです、お互いの信心理想というものがです。始めの間は、苦しかったからこそ、頼まねばならんからこそ、お参りもさせて頂いた。段々、信心の稽古をさせて頂いておるうちにです。頼めば聞いて下さるという事実。金光大神を唱えれば、そこに、金光大神が現れてくださる働きをです。五年、十年、二十年と信心続けておるうちに、信ずる力が生まれた。生まれたところには、金光様のこの字も唱えんでも、神様のほうが、おかげを下さる。いうならば、神様が推慮して下さる。これは、厚く厚くお礼を申し上げますと書いてあるが、暑い寒いの暑い。ほぅ、この人は、そうにゃ暑かばいの問いう風にゃ、こちらが受け取っとらん。ね。もう、心の底からです。本当に、深く深くお礼を言いよるとだというふうに、こちらが受けとっておるのであります。それを、例えば、ほんなら私が、そうにゃ暑い暑いち書いてあるけんで、そうにゃ暑かつじゃろけん。涼しゅうなるごとお願いしよってんなんてんち言うことじゃないという事です。笑い話のようですけれども、私共と神様の場合は、そんなことじゃないでしょうか。ね。そこに、神様が推慮してくださって、先回りをしてから、おかげを下さるようなおかげが頂けるようになる。ね。そこでです、そういう世界に、何時も留まっておらずに、もう、お互いがです。いうならば、今度は、信じられる私になることになってこなけりゃならないという事です。ね。それには、先ず、いうなら、真善美である。美しゅうならないかん。嘘のない世界に住まわにゃいかん。ね。悪のない、いうならば、私にならせて頂く、本気で精進をさせて貰わなければいけない。
いうならばです、願う世界から、お礼を申し上げる世界に入っていかなければならないという事です。神様から信じられる。もう、願い以上のおかげ、いうならば、願わんでも下さってあるおかげ。しかもゆとりのある、ね。そういう、ね。その日その日のじゃなくて、行本さんじゃないけれどもです。もう、本当に、今までは、もう月末ギリギリで、ね。晩、遅うまでかからなければというのがです。おかげで、一日二日前に、おかげがいただけるようになった。それは、日参を始めたら、この方、そういうおかげになってきた。それもおかげである。けれども、それだけに留まっておってはならない。もう、何時、例えば、集金に来られても、何時、突発的な、入用な金が、例えば、出来てきてもです。いつでも、ちょっと銀行まで行けば間に合うというくらいなです。ゆとりのあるおかげを頂くためにはです。ね。先ずは、私共が、信ずる世界から、信じられる私共になる稽古を、本気でしなければならない。真善美の世界に住まわせていただくためには、ひとつ、真善美にならなければならないということです。家庭の中でもそうです。ね。お互いの、いうならば、夫婦親子の合言葉。もう、限りなく美しゅうなりましょうよ。ね。もう、限りなく美しゅうなろうやと言うたら、問題はその場で解決するんです。汚い心が問題を残すんです。ね。真善美の世界に住むなら、言うならその合言葉。それこそ、限りなく美しゅうなろうというところにです、問題が解消していくんです。素晴らしい功徳があるのです。お互いが、本気で美しゅうなろう。本気でそう思う。そこにです、私が、神様のご信用が、いやましについてくると思うです。もう、この氏子がです。これ以上汚かならね、これ以上悪は作らない。もうとにかく、美しゅうなろうということに、あれだけ努めておるのだからと、初めて神様の、いうならば、ご信用が付いてくるのであり、また、増してくるのである。ね。そこには、願う世界から、お礼を申し上げる世界の展開があるわけです。ね。これは私は、ね。合楽の信心を、大雑把に言うての事です。ですから、実を言うたら、今、まぁだ、貧争病のない世界に、本当に住んでおるかどうかを確かめて、ね。ここを一つ、もう卒業しとることになっとるのですけれども、もう一遍ここのところを復習させて貰うような気持ちでです。ね。貧相病のない世界に、完璧に住まわせていただくおかげを頂いて、はじめて、真善美の世界と言うのが開けてくるのです。ね。そこに、信じるから信じられるという世界。願うということから、お礼を申し上げるという世界。
今日は、御理解十九節が、えらいこの、いうならば、金光大神は形がのうなったら、来てくれろ言う所へ行ってやる。ね。だから、金光大神の働きを、そこに来ていただいて、お働きを頂くということであっても、その働きが、ね。どうぞ、どうぞと言うて、無理を言うて頂くおかげから、言わんでも、願わんでも頂く世界に、金光大神の働きが頂けるようなおかげを頂く時、初めて、御理解二十節にあるように、親の言う事を聞かぬ子は、親も仕方があるまいがと、御理解、第二十節の最後のところにありますね。もう、言うことを聞かぬから構わんということじゃない。言う事を聞かぬ子供でも、やはり、面倒を見てやるというのが、親でありますように、ね。今度は、言うことを聞く子供にならせて頂く時に、ね。親の喜びが、そのまま、その子に対する信用になる。今日は、そう言う事を聞いていただきましたね。どうぞ。